9時30分前に会場に着いた。まだ開場していないので、待つ。
開場して、続々と席を確保するために我先に(^_^;) もたもたしていたら、どんどん席が埋まっていった(^_^;) 新婦人の方が「空いてるよ!」と案内してくださったので、ありがたく座らせていただいた。
ナガサキデー集会には、5000人の方々が参加。体育館は、いっぱいなので、第二会場が案内されるほどでした。
連帯のあいさつでは、玉城デニー沖縄県知事がメッセージが代読されました。
被爆者の証言では、横山さんが「4才で被爆しました。戦火が酷くなったので、姉と祖母と九州へ疎開していました。父と母と妹は、残りました。」と始まり、ここからは、入院していたお母様から一晩中聞き取りしたことを話してくださいました。
「当日、仕事に出ていた父は、何メートルも離れた崖の下まで爆風で飛ばされ、母が探しに行こうにも電柱が火を噴き赤い炎が出ていて、とても探しに行かれる状態ではなかった。4日後に父と会えた時には、目は紫に、顔は真っ赤、服は血だらけで、誰かわからないほどだった。幸い命が助かりましたが、爆風で右目に何かが刺さり、失明したものの仕事に行くにも大変そうで、入退院を繰り返していました。妹は、5年後に声がかれ、34歳で亡くなりました。途中で失明。読書と手芸が趣味でした。戦後に生まれた妹に紫斑が出て・・・。母は、1972年、64歳で胃がんで亡くなり、3年後の1975年に(聞きそびれた)がんで父が亡くなり、姉は胆管癌で亡くなりました。我が家は誰かしらが入院していました。」
横山さんは、1971年の原水禁大会で初めて証言するために、先に書いたように、お母様から聞き取りをしたということでした。「一緒に証言をしていた男性は、お母様のお腹の中で3か月で被爆し障がい児として産まれて、いじめに遭いながら、暗くふさぎ込んでいる日々を過ごしていましたが、被爆の証言をしたことで、聞いてくださった方々が受け入れてくださったことを喜んでいた。47歳で亡くなりました。永遠に核兵器が世界から無くなることを願う」と話され、会場からすすり泣き。
もうお1人は、韓国被爆者の証言は「父は、強制労働で1939年に日本へ連れて来られました。1度韓国へ戻り、母と結婚し再び日本で仕事をしていた時に、原爆により、父は、未だに行方不明のままです。母は、子どもたちを連れて韓国の親せきを頼り、帰りました。最初は、酷い戦地からの帰国を喜んでくれましたが、貧しい生活から、そのうち厄介者扱いされました。日本からも、アメリカからも、韓国ですら何の謝罪も補償もしてくれません。核兵器を鉄くずに変えるまで、たたかいます!」と話している間、この方は泣いている。
途中でしたが、原爆投下の時間となり、全員で黙とう。
「日本人の次に韓国人が被爆している10万人の内、5万人は、即死した。せめて、安らかに眠れる場っをつくってほしい!それが、父の遺骨を1つも拾ってやれない親不孝な息子の願いです!」と、もう涙が止まらない。
アメリカのピースアクションのブルックスさんは「アメリカの多くの人々を代表し、心から謝罪します。戦争は、決していかなる紛争の解決策にもなりません!みなさんの運動の歴史は、必ず後世に受け継がれます!1人で生きることは、とてもちっぽけですが、みんなでやれば成し遂げられる!」と。
多くの海外代表のみなさんの2020年への決意を聞いていました。
「(いつからか聞き取れなかったのですが)戦争は、12回、紛争は32回。20億人の子どもたちが犠牲となった。地球環境の破壊、資本主義、差別主義者のトランプ大統領はど問題は、多いが団結は世界を変え救うことができます!どんな小さな1歩でも世界を変えられます!平和こそ、究極の手段です!」とおっしゃった。
高校3年生の女性は「人を思いやる心をもつ。私とみなさんには、声という武器があります!平和への扉は重く、開きそうにないですが、その扉は必ず開く時が来ます!」と若々しく、決意を話された。
岐阜県の新婦人の活動を報告は「ヒバクシャ国際署名の目標3万5000、9条署名3万を達成して、大会に参加しています!原爆写真展を9自治体の庁舎内で実施。銀行のロビーでも開催しました。平和行進の網の目行進は、町内放送でお知らせしてくれます。」と、驚きです!
平和行進の海外代表の方が「Wは、目覚めよ!Aは、アクション!Rは、お互いの物語を聞こう!Kは、優しさの種をまこうです!」と『WARK』を使って作文。
文化企画として、被爆者の渡辺 千恵子さんの半生を歌にし、合唱。
政党からの連帯あいさつで、日本共産党小池 晃書記局長が党を代表して登壇。
行動提起の後、大会参加者全員でアクション!国連ブルーを掲げた。
閉会宣言の後、海外代表団をお見送りして、私たちも会場を後にした。
一旦、ホテルへ荷物を取りに行こうと、市電を待っていたら「あら!」と声をかけてくださった方が(*^_^*) 初日に、同じ飛行機でバスも一緒、ホテルは、お隣のお部屋になった女性でした。「これからどちらへ?」と聞かれ「わたっしは、これからホテルに荷物を取りに行き、長崎駅まで行って、加藤なを子さん(前県議会議員)ともう一方とご飯を食べます。」と言うと「ご一緒して良いかしら?」とおっしゃるので「はい!どうぞ!」と。
長崎駅に行くのは、初めてでした。なのに、加藤さんの待ち合わせ場所の説明は「エスカレーターが在るから」とか「ファミマが在る」とか(^_^;) 2人でファミマを探した。幸い直ぐに見つかった(^_^;)
少し遅いお昼ご飯をゆっくりいただき、お互いの感想なども話しながら、過ごした。お昼ご飯を食べたばかりなのに、夜ご飯の心配をして、スーパーでお弁当を買う。
待ち合わせの時間になり、バスまで行く。
乗り込んで、衝撃の事実が知らされる「来るはずの飛行機が、遅れていて、出発が19時45分になるそうです」と(~_~;) 飛行場について、2時間ある・・・。初めて「飛行が遅れるということで、お食事券が配られます!」と(^_^;) すでにお弁当を買った私たちは、お土産を買うことにした。
出発ロビーのソファーにどっかと座り、お喋りしているうちに1時間が過ぎ「お弁当食べようか?」と食べてしまった(^_^;)
台風の影響で飛行機の到着が遅れ、代替の飛行機の確保に時間がかかったそうです。
座っていた所の真ん前に飛行機が到着。順に乗り込み、離陸するとけっこう揺れた。
羽田には21時45分に着いた。
横浜まで、ずっとお部屋がお隣だった方と一緒でした。初参加だっというこの方は「本当に不安でしたが、ご一緒できて良かったです」と言ってくださった。それは、私も同じでしたよ。
自宅には、23時過ぎに到着。
レンジは、それはもう大歓迎(^_^;) お散歩に出たら、前のお宅のお兄さんがバイクの修理をライトつけてやっていた。こちらのお宅には、3匹のダックスさんと1匹の猫さんが居るという認識でしたが・・・。レンジがずっとお兄さんの足元をクンクンするので、お兄さん「家の獣たちの匂いがするの?」と「ダックスさんと猫さんですよね?」と聞くと「はい犬3匹と猫3匹居ますんで」と(゜_゜) そんなにおられたとは(^_^;) それにしても、レンジが離れようとしないので、困った(>_<) お兄さん気をつかって帰るふりをしてくれた(^_^;) 無理矢理引っ張って行ったのですが、直ぐに戻って来て、またクンクン(^_^;)
抱っこして帰宅。
また、沢山の出会いがあった1日でした。
と、10日に書いた。