宇佐美 さやか

うさみ 清香
日本共産党横浜市会議員
うさみ日記

視察の続きから・・・。

2015年11月22日

PB200066PB200041 食事をして、青葉区あざみ野に在る、横浜市の地域館として初の指定管理制度を2010年4月導入。2015年4月に第2期指定管理運営を開始した図書館、山内図書館を視察。有隣堂グループが管理・運営をしているということですが、市内の図書館と同じ本を蔵書しているそうです。指定管理者制度を導入すると、何となく「指定管理者制度=質の低下」をイメージしてしまうのですが、思い込みは、いけませんねっ!ここは、どんな方にも利用しやすいように工夫がされていました。床はフラットで、トイレは大人が利用する図書のコーナーには大人用と車いす用が在り、子どもの図書コーナーには、子ども用の洗面台の低いトイレが用意されていて、赤ちゃんを連れて来たママが授乳をしたりオムツを変えることができる畳のお部屋も在りました。外には、ウッドデッキが在り、ベンチには気持ち良さそうに男性が腰を掛けておられました。地域と連携した催しも沢山あり、本を借りに行くだけの図書館ではない楽しみがあるからか、市内の図書館の利用者数が減っている中で山内図書館は前年度は、微増となったそうです。指定管理者制度の考え方が少し変わりました。

 瀬谷区に在る上瀬谷通信施設を視察。今年6月に返還された米軍基地だった場所です。上瀬谷通信施設の歴史は、農地や山林でしたが、戦前に旧日本軍が買収し、資材集結所などにしようされていたそうですが、戦後は進駐軍に接収され、1947年にいったん接収解除されましたが1951年に再び接収されたそうです。面積は約242haと東京ドーム52個分に相当し、国有地と民有地が4%程度を占めています。地権者が250名いて、市と月一回のペースで今後の土地利用についての検討会を行っているそうです。広い敷地を市民の憩いの場として使えたら、良いですね。しかし、日米合同委員会で返還の方針が合意されたのが2004年の10月ですから、決まっても中々米軍は返還してくれなかったとのでしょうか?いうことは?神奈川区のノースドックも、返還の運動をもっともっと起こさないと返還してもらえないままになってしまう(><;)!! 

PB200091PB200087 神奈川区と保土ヶ谷区と西区の境に移動。市民病院移転先を視察。医療局の方々が説明をしてくださいました。現在の市民病院は保土ヶ谷区に在るのですが、三ツ沢公園を挟んで反対側の神奈川区に移転予定。現在古川電工の社宅と三ツ沢公園の野球場を移転地とすることになっています。野球場から古川電工の社宅までぐるりと歩いてみましたがかなりの広さでした。この場所に決めた理由として①現病院に近く、診療圏や連携する医療機関などへの影響が軽微であること。②病院と公園が一体となった災害対策機能の向上が図れること。③現病院敷地を公園に転換することで、全体として公園面積は減少しないこと。などが挙げられていました。

 次に、現在の市民病院を視察。産婦人科の陣痛室と分娩室の中まで案内していただき、陣痛室は、3つベッドがあるのですが、2つカーテンで仕切るだけで、狭いために立ち会った夫さんたちのお尻がぶつかりそうになるくらいのスペース。分娩室も分娩台が2つしかなく、もし3人同時に分娩するとなると、陣痛室での分娩になることもあるそうです。分娩室では、産まれたばかりの双子ちゃんに遇う事ことができました(^0^)新米パパが一生懸命写真を撮っていました!そんなパパさんも可愛かったです(^。^)その後、非常災害時に情報統括を行う警備員室にお邪魔しました、室内は狭く、10人も入ると息苦しいような所で、災害時には果たしてどうなってしまうのかと、少し心配になってしまいました。そして、当局の方々が、がん検診のスペースに「迷子にならない様に。」と言われながら向かいました、地下の狭い廊下をくねくね行くと、検診の場所に「入口からここまで、分かりづらいんです。」と、当局の方々。更に、外に出て、壁面を見ると、ヒビが入り、タイルが剥がれない様にネットがかかっている状態でした。建てて30年くらいであんなに酷くなるのでしょうか?「メンテを怠っていたのでは?」と、思ってしまいました。継ぎ足し継ぎ足しで施設を造ってしまった結果でしょうか?今度は、しっかり先を見据えた設計をしてほしいです。

 以上が、20日の視察の簡単な説明と感想でした。

 ここからは、21日の出来事。地域の方と「戦争法廃止」の署名のお願いに行きました。お天気が良かったからかお留守が多くて残念でした。ある後援会ニュースの方にお会いして署名していただき、お話して帰り際にみかんを戴きました(^0^)美味しく戴きました。

 東神奈川駅で2時間宣伝。「戦争法廃止」の署名13筆集まり「本当にこのままでは戦争になってしまうし、あの決め方も酷かったわよね!頑張って!」と、署名を快くして下さる女性や、高齢の男性は、一緒に宣伝している同志に戦時中のお話や趣味のことなども話して下さったそうです。貴重な戦時体験記をもっと若い世代にも伝えて欲しいと思い、またお会いできたら「戦争体験を聞く会」みたいなつどいを開きたいとお願いしたい。連絡先をお伺いすれば良かったと後悔(><)「また元気にお会いしましょう!」と、言うのが、その方のお別れの言葉なんだそうです(^0^)だから、またお会いできると信じて、宣伝の時には気を付けて周りを見ようと思います。


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