8月4日~6日まで、広島に行ってきました。広島に行くのは、高校生の時以来です。そして、原水爆禁止世界大会に参加するのは、3年ぶりでしたが、3年前は長崎でしたので、広島での大会参加は初めてでした。
4日の朝、新幹線で広島に向かい、全大会の会場へ。14時から開会宣言、広島市長のあいさつ。続いて、来賓あいさつに立ったのは、広島被爆者、日本被団協代表委員の岩佐 幹三さんは「16歳で戦争孤児となり、第1回の原水爆禁止世界大会に参加したことが平和運動に加わるきっかけになった。」と話されました。
各国の代表団のあいさつは、日本で非核平和運動をしている私たちに勇気と希望を分けてくれた気がしました。
アメリカから参加していた、マサチューセッツ・ピースアクションの代表。ボストン郊外にあるタフツ大学の学生で、大学が核兵器に投資することをやめさせ、学生の中で核兵器廃絶への意識を高めるために活動しているハレイ・コブリー・カニンガムさんは「全てのヒバクシャにお詫びします。私たちは、草の根の活動を100支部、15万人~20万人でしています。国会議員にも直接核兵器廃絶にむけての声をあげています。1通の手紙、1本の電話の後ろには、何千人もの有権者が居ることを分からせることができます。オバマ大統領にも核廃絶に向けての圧力をかけることもしてきました。アメリカ政府の政策を変えるのに、何もアメリカに居る必要はありません。新聞社に意見を送る、NGO団体にカンパをするなどできます。もし、落ち込んだら、今までたたかってきた先輩たちを思い出してください。」と、いきいきと訴えたのは、忘れられません。
一歩でも二歩でも~原水爆禁止国民平和大行進・国際青年リレー行進に参加したフィリピンの青年の「日本の若者のみなさん!来年は一緒に歩きましょう!ゲームをやる時間があるなら一緒に歩きましょう!」と、呼びかけると、会場から大きな拍手がおきました。
開会総会は、海外代表は、26カ国から89名の方々も合せて4,500人の参加でした。
全大会の後、神奈川から参加している新婦人のみなさんと歩いて平和記念公園に行き、原爆ドームを見て、さらに原爆が投下された地点を見て、あらためて原子爆弾の恐ろしさを思い知らされました。そして、交流会会場に到着し、参加している方々の自己紹介で笑ったり、感心したりと、楽しい時間を過ごしました。
2日目は、分科会に参加。私の参加した分科会は「非核平和の自治体づくり」です。84名が参加し、内地方議員が24名。各地での豊かな経験談が報告され、自治体の首長に働きかけることの大切さや、地方自治法に書かれていることを守らせること、職員との対話を大切にし、住民との運動を粘り強く続けることを確認しあい、ヒバクシャの平均年齢が80歳を超えたことから、被爆者国際署名をファイナル署名と位置付けて頑張っていることから、署名に力を入れることも確認。
18時から「2016 核兵器をなくそう女性のつどいinヒロシマ」に、参加。会場は、元気な女性たちの熱気で圧倒されました。被爆の実相ということで、被爆された方は「6日の朝は良く晴れた気持ちの良い日で、お友達とおしゃべりをしていた。その時もの凄い光に驚いて、机の下に隠れました。8日に、家だった所にたどり着き、台所だった所に行くと、母と姉の遺体がありました。別の部屋には、弟と妹の遺体が・・・。少し行くと、近所のおばさんのお腹からへその緒が繫がったままの赤ちゃんと亡くなっていたのを見て、思わず手を合わせたのを覚えています。家族6人が亡くなりました。」と悲惨な体験を語られました。この証言を聞けることは、本当に貴重な時間です。
1日目にあいさつに立った、ハレイさんも発言に立ちました。「タフツ・ピースアクション(TPA)の会長をしています。公正で平等な平和運動をしています。」と話し、平和運動に参加するようになったきっかけなども語られました。チュニジアから参加したレイラ・ベン・サイードさん「実は、少し前まで核兵器についてあまり気にしていなかった。チュニジアでの革命が成功したのかは、わかりませんが、ジェンダー平等が憲法で保証され女性の権利を行使できるようになった。イスラム教の一夫多妻を禁止したりと少しずつ良くなっている。核兵器の恐ろしさを子どもたちに知らせるために、佐々木さだ子さんの絵本を教材として生徒に渡しています。」と活動を報告してくださいました。
オランダから参加したセルマ・ファン・ウーストウォルドさんは「オランダは核不保持の国ですが、アメリカ軍の基地には20発の核兵器を保有している。国として核廃絶を進めようという運動をしています。他国間で核軍縮に向けて呼びかける時です。」との訴えに会場は、盛り上がりました。
福島の代表と沖縄からの代表の参院選で野党統一候補勝利の報告でさらに盛り上がりました。フロア発言では、神奈川県の新婦人の常任坂田さんも発言に立ちました。フィナーレは参加者全員で「青い空は」と「We Shall overcome」を合唱し閉会。
お腹がすいていた私は、広島出身のおみわ智恵美議員と食事に行き、美味しい海鮮料理をいただきました。
3日目。早起きして、神奈川区の生活と健康をる会(生健会)の方々が一生懸命折った500羽の鶴を持って平和記念公園に行きました。1000羽ではないのは、残りの500羽を生健会の会員さんでスイス人のイーゴーさんが持って参加しているので、2人合わせて1000羽に。
8時から始まった「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参加しました。
昨年までに亡くなられた方々のお名前が記された原爆死没者名簿が奉納され、広島市議会議長の式辞、献花と続き、8時15分に平和の鐘が鳴るなか平和への祈りを込めて黙とう。セミも祈りを捧げているかのように静かに。
広島 松井一實市長の平和宣言は「1945年8月6日午前8時15分。澄みきった青空を切り裂き、かつて人類が経験したことのない「絶対悪」が広島に放たれ、一瞬のうちに街を焼き尽くしました。朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜などを含め、子どもからお年寄りまで罪のない人々を殺りくし、その年の暮れまでに14万もの尊い命を奪いました。」と始まり「私たちは、本日、思いを新たに、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げ、被爆地長崎と手を携え、世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。」と、いう素晴らしい宣言でした。
こども代表の平和への誓いは、聞いていて胸が締め付けられるようでしたが「私たちには、被爆者から託された声を伝える責任があるのです。一人一人が、自分の言葉で、丁寧に、戦争を知らない人へ 次の世代へ 世界の人々へ 命の尊さを 平和への願いを 私たちが語り伝えていきます。」と締めくくったので、彼らのこれからの人生に「核兵器も、原発も、基地も、戦争も無い世界にしていかなければ!」と、気持ちをあらたに。
藩基文(パン・ギムン)国連事務総長のメッセージが読み上げられ、閉会。
物凄い人の多さに驚きましたが、公園内の原爆の子の像をめざす。千羽鶴をしっかり所定の所にかけて、佐々木さだ子さんの像の前で「さだ子と千羽づる」の読み聞かせをいていたので、最後まで聞き、さっきまで式典が開かれていた所を通ると、式典のプログラムを本部受付で発見し、頂戴したところ、折り紙が出てきたので、またつるを折りました。イーゴーさんは、初の折り紙でのつるを作成。
全大会の会場へ。10時30分から開会。
連帯のあいさつ、国連・政府代表の発言に続いて、特別企画の「被爆71年、被爆者の願い」では、女性のつどいでも証言を語ってくださった方も参加して、勿論、昨日と同じ話でしたが、やっぱり涙が・・・
文化企画では、佐々木さだ子さんの甥っ子で被爆2世の佐々木 祐滋さんと被爆3世のMetisさんによるコラボコンサートで、会場が一体に。
核兵器全面禁止へ 国内外の運動の決意では、アジア・太平洋・マーシャル諸島から参加のアバッカ・アンジャイン・マディソンさんが「アメリカは過去に67回も水爆実験も含め行いました。核兵器廃絶のために頑張りましよう!」と、パワフルな訴えに、元気をいただいた気がしました。国内の決意では、神奈川県の新婦人でも40歳代のアルデンテ世代のみなさんと壇上へ。文書採択/行動提起が読み上げられ、大きな拍手で採択。フィナーレでは、会場のみなさんと大合唱のうちに閉会。
もの凄い暑さのなか、帰路につきました。