6月13日は、羽咋の支援センターへ行き、車に支援物資を詰め込み珠洲市へ。珠洲市に向かう道は、何処も真っ直ぐに進むことができないくらいに崖が崩れている所、道路自体が崩落して片側通行しかできない状態。市街地に入ると、あちこちで大きなお家が倒壊していたり、建っていても色褪せた赤い紙に「危険」と書かれた貼り紙が玄関に貼ってあるという所が多く、時間の経過がその紙の色褪せ具合で理解できて、切ない気持ちになる・・・。海に近い見附公園の傍に建てられた仮設住宅(30戸)に着くと、様子が・・・?見ると、まだ建設途中で作業されている方々ばかり・・・。その建設中の仮設住宅を覗かせていただくと、木がふんだんに使われている二階建ての素敵なお家でした。前日、伺った鉄でできた仮設住宅とは大違いでした。入居している方が居られないので、急きょ行き先を変更し、同じ宝立(ほうりゅう)町の仮設住宅へ。宝立小学校の敷地に160戸が設置されている。当初の予定は33戸の仮設住宅だったので、セットした基本の袋は20個と、歯磨き、歯ブラシ、大人用おむつ、ラップ、カレンダーなどの日用雑貨がごちゃとある状態。車を停めて、段ボールを広げて、支援物資の基本セットを作る。できたセットをカートに入れて、一軒一軒お尋ねするチームと、広げている時から、声をかけていらした方々との対話をしるチームと何となく分かれて活動開始。この日は、朝からはたの君枝比例代表予定候補と衆院8区予定候補の飯田よしきさんも参加。
物資を持って、チャイムを押し、不在の所へは支援センターのお知らせビラをポストへ。ご在宅の方には、支援物資をさしあげる。中には「要らない」と言う方も居られますが、お話しはしたいようで「これから先が心配。あと、夏物の下着や寝具が無かったから、買いに行ってきたけど、遠くにしかないから不便」と話された。お話しがひと段落して「もし、良かったら、他にも持ってきた物が有るので、見に来ませんか?」と、お誘いしたところ「そお?じゃあ行って見ようかしら?」とお外に出てらした。いっぱい持ってきたはずの日用雑貨がかなり減っている。通りがかった方々と対話になり、その場で物資を選び、持ったままお話しが続いているようでした。聞けば、お二方は、仮設に居られるのではなく、近くの避難所に居られるとのことでした。この時点で、仮設に移った方と避難所に居られる方とのコミュニティはどうなのか気になったのですが・・・。同じ敷地内では、自衛隊の方々が避難所に居られる方々のためのお風呂を用意していた。迷彩色のテントに迷彩服は、どうも、避難所には相応しいと思えない・・・。普段着では駄目なのかしら??
支援行動の後、避難地域にお1人で暮らし続けて居る高齢女性のお宅を訪問して、支援物資をお届けする。生活状況を伺う。
珠洲市から輪島市に抜けるための海岸道路の崩落現場は、1月1日の発災以降、いっさい手つかずのままとなっていました。隆起した海岸が何メートルも続く景色も視察しました。
朝「この反対側の道はどうなっているのかしら?」と言いながら向かってきていましたが、のと里山海道の上りは、見て来たとおり、上り線は通行止めの区間があるため、珠洲市から七尾市まで海岸道路を走り、七尾市から、のと里山海道に入り金沢市に帰りましたが、途中、事故渋滞に巻き込まれ5時間かかっての帰路となってしまいました。
14日は、輪島市へ。日本共産党輪島市議の鐙(あぶみ)史朗議員の案内で、輪島港に向かいました。1mから2m隆起した港は、船が停泊できずに一艘が少し深くなっている所につないであるだけでした。すっかり浅くなった港は人影もなく、寂しい場所になっていた。これから、底を掘る作業を始めるということですが、港の方からは「埋め立てた方が良い」という声も出ているということを鐙議員が話していた。
次に行ったのは、有名な朝一が出る商店街。200軒近い店舗や家屋が消失してしまった現場は、ほとんどが手つかずのままでした。津波で避難警報が出る中、消化する人手が居なくなり、燃え拡がってしまったということでした。悲しいことに元日ということで灯油は各お宅で普段よりも多めに備蓄。さらに車のガソリンは、満タンというところが多かったということで、何重にも被害を大きくしてしまう原因が重なるという不運すぎる・・・。
輪島市役所へ。坂口茂市長に直接、横浜の日本共産党の事務所に届けていただいたり、宣伝の際に募金箱にいれてくださった義援金をお渡ししてきました。総額169万4,716円でした。ご協力くださったみなさん、本当にありがとうございました。
その後、輪島市鳳至(ふげし)小学校の敷地に建設中の仮設住宅を視察。ちょうどボランティアの方々がエアコンの室外機を運んでおられた。ここは「熊本モデル」と呼ばれる木造平屋の長屋タイプで2年後には、公営住宅として住み続けることができるようにしたそうです。目の前の体育館には今も50人方々が非難生活を送っているそうです。発災直後は、800人が、電気もなく施錠されている体育館の入り口のガラスを割って入り、寒い中で避難生活を始めたそうですが、半年がたち今度は暑さが襲うことに・・・。やっと冷風機が設置されたそうですが、過酷な生活に変わりない気がします・・・。
「もんぜん楓の家」を訪問。経営しているグループから「食料が底をつきそう」という連絡が支援センターに入り、運んできた食料をお渡しした。施設長さんは「定員18人のところを現在26人入所している。市からは、定員を守るように指導されているけど、要介護の方は避難所に行かれないまま行き先がみつからない。この敷地の駐車場に福祉仮設住宅を要望しているので、建ててもらいたい。そういう請願を出している。被災した時、福祉避難所にも行かれない方々を色々な議員先生が連れてきたから、受入れているのに、今や何もなかったかのように知らん顔で、助けてくれない。自分たちで連れてたのに」と、ご立腹でしたが、怒るだけでなく、しっかり入所されている方々の命と健康を守ろうと頑張っておられたので、頭が下がります。
次に行ったのは、ビニールハウスで自主避難生活を続けておられる方々の所。農家さんということもあり、お野菜は作っておられる。お水は、ご近所の方々が持ってきてくださるとか。電気も通して、暑さ対策も施しておられたけど、いつまで続けられるのか心配。次は、4mも海底が隆起した門前町鹿磯を視察しました。
最後に、日本国憲法の石碑を案内していただき、鐙議員とお別れ。
3日間、本当に貴重な体験を沢山させていただきました。すっかい報道が少なくなり、現場がどうなっているのか知らない方も多いと思いますが、現状は、がれきの撤去もままならないという状況です。何も持たずに非難した方々にがれき撤去の費用負担を求めるのは、鬼ですよね・・・。公費解体を求めるのは当然です。その審査が中々進まないということも聞きました。